「中村紘子 ピアノ・リサイタル」

2016年7月26日、中村紘子は我々の手の届かない世界に旅立ってしまった。
日本人として初めて、全額奨学金を獲得してジュリアード音楽院で学び、1965年開催のショパン国際ピアノコンクールで第4位(歴代日本人受賞者の最高位)と最年少者賞を受賞するなど、将来を嘱望されていたソリストだった。その後も世界各地のピアノコンクールで審査委員を務め、浜松国際ピアノコンクールを世界有数のコンクールに育て上げるなど、指導者としては世界レベルの実績を残した。
反面演奏者としては、同年代のピアニストである内田光子や、後輩の日本人ピアニストの後塵を拝していたことは否めない。学生時代、クラシック音楽のCD蒐集に夢中になっていた私だが、私が持っているCDで彼女が演奏したのは、得意としていたショパンの協奏曲だけである。そのCDも、今年旅立った評論家・宇野功芳が、長年健筆を振るっていた「レコード芸術」の協奏曲再発売のコーナーで、「音色の変化が乏しい」という記述を記したのを覚えている。「ショパン国際ピアノコンクール4位入賞」の威光が届くのは日本限定、海外では審査員やピアノ教師として名前は知られていても、肝心のソリストとしての評価はどうだったのか、疑問が残る。そしてこの演奏を聴いて、彼女のソリストとしての限界がわかった気がするのである。

中村紘子 ピアノ・リサイタル プログラム

中村紘子(ピアノ)
2013年10月20日/サントリーホール

パルティータ 第2番 ハ短調 BWV826(J.Sバッハ)

パルティータ」とは、クラヴィーア(チェンバロ、ピアノなど鍵盤楽器の総称)の練習曲を指す言葉である。イギリス組曲、フランス組曲など、J.S.バッハのクラヴィーア組曲集の集大成にあたる作品である。以前は「ドイツ組曲」というタイトルがついていた。1726年~1730年に楽譜が印刷され、1731年に合本として刊行されたことから、作曲もその時期と重なると思われる。この2番は、1727年に印刷された。
1.シンフォニア 冒頭から、タッチが力み返っているように聞えるのは私だけか?音色も汚く、バッハが持つ典雅さがまるで伝わってこない。主部になると、ベテランらしく美しい音色を聴かせてくれるが、展開部になると、響きが汚くなってしまう。彼女の、バッハへの尊敬と情熱は感じられる。しかし、バッハの旋律に典雅さを求める向きには受け入れられない演奏だと思った。
2.アルマンド この曲を書いた頃のバッハはまだ40代半ばで、創作力も活力もみなぎっていた時期である。だが中村の演奏は、彼のパワーを引き出すにはあまりにも枯淡に過ぎるというべきだろう。精も根も尽き果てたバッハ。確かに、彼は意欲作と次々を書く一方で、領主一族との人間関係に神経を使っていたのかも知れない。彼女がバッハの心情を汲み取っていたのなら、このような音色と表現もある程度納得がいく。
3.コレンテ ミスタッチや音色がはっきりしないところがあるなど、テクニックの衰えは否めない。彼女は冒頭のインタビューで、この曲集が大好きだと語っていたが、もはや「好き」だけではこの曲を演奏できない年になってしまったのだろう。哀しいことである。
4.サラバンド テンポをゆったり取り、しみじみとした歌を聞かせようという姿勢は評価してできると思う。タッチもクリアで美しい。やれやれ、今日の仕事も終わったというバッハの心情を表現するために、遅めのテンポを取ったのだろうか。だがそのテンポには、これまでの労働で疲労がたまっていると感じたのは私だけだろうか?
5.ロンドー サラバンドとは一転して、ピアノから力強い響きと音色を引き出している。ここでもミスタッチが目立つが、彼女は自分が思っているバッハを思いきり曝け出そうと思ったのだろう。
6.カプリッチョ やはり疲れが出たのか、タッチは粗く、音色も汚くなってしまった。それでも彼女は、己のバッハ像をステージ上に表現しようと奮闘する。おそらく中村は、バッハはベートーヴェンにも負けないくらい強いと思っていたのだろう。だが今日の演奏には、あまり説得力がないような気がした。

幻想ポロネーズ 変イ長調 作品61(ショパン)

リストから「この痛ましい幻影は、芸術の域を超えている」と評された、1846年に作曲されたショパン晩年の傑作。5つの主題と、多彩な内容をもち、彼の作品では大規模な部類に入る作品である。
このころのショパンはサンドと別れるなど、精神的な痛手を被っていた時期であり、この曲からもサンドに対する嘆き悲しみが伝わってくる。おそらくショパンは、彼女との出会いから別れにいたる道程を、ポロネーズという形式に託したのだろう。ショパンはサンドのことを、単なる彼女というだけでなく、大人の女性として尊敬していたに違いない。サンドは若いショパンの情熱を受け止めただけでなく、社交界や世間一般で生き抜く術を授けてくれた恩人だったのだ。彼はこの曲を書きながら、失ったものの大きさをひしひしと感じていたのかもしれない。自分がここまで来られたのは、ひとえにサンドのおかげだったのだ。自分一人の力だけでは、とてもここまでにはならなかっただろう。なんだかんだいって彼女と別れてしまったけれど、やっぱり自分が我慢するべきだったのだ。第五主題終盤の音の連打は、ああ私のバカバカバカ!自分は何と取り返しのつかないことをやってしまったのだろうという、ショパンの嘆き悲しみである。再び登場する第一主題、第五主題では、自室で暴れまくるショパンの様子が目に見える。だが残念ながら、このときの中村には、この音楽を表現できる力がなくなっていた。音は汚く、ミスタッチも出てくる。見ていて、何とも痛々しい。

マズルカ 変ニ長調 作品30 第3(ショパン)

4つのマズルカで構成される作品集で、1827年に作曲・出版された。作曲形式を洗練することより、自身の創作欲求を優先しているため、「ショパンの日記」と呼ぶ人もいる。
サンドの知遇を得て、社交界でもその名を轟かせた時代に書かれた作品の一つ。サロンでの知名度も高まり、彼とお近づきになろうと有象無象の人たちが彼のもとにやってくる。中間部終盤の不気味な音色は、浮かれ気分でいるショパンに釘を刺そうとするサンドだろうか。それでもうきうき気分でいるショパンである。

マズルカ 嬰ハ短調 作品30 第4(ショパン)

サロンがお開きになり、ショパンは一人で思索にふけっている。あるいは、自室で新しい曲の構想を練っているのだろうか。サンドは先ほど、調子に乗ってるんじゃないわよと釘を刺した。いわれてみればその通りかも知れない。彼らは私の音楽を褒め称えても、祖国ポーランド復興に力を貸すとは一言も口にしない。誰か祖国復興に手を貸してあげるといってくれないかな?私はそういう人と出会いたいのだがと、独りごちるショパンであった。

 

幻想曲 ヘ短調 作品49(ショパン)

1841年に書かれた作品。「幻想曲」というジャンルは、18世紀に書かれた作品は、思いつくまま楽想を並べたものがほとんどだった。ベートーヴェンはこの形式では序奏→主題→変奏→発展という形をとったのに対し、ロマン派の作曲家は、ソナタ形式を導入した作品を遺した。ショパンはソナタ形式を基調としつつ、序奏や中間部を組み入れる、極めて自由な形式の作品として仕上げた。
葬送行進曲の後に出てくる第一主題は、どこかもの悲しさが滲み出る。祖国復興に関心を示してくれる人がいないことへのいらだちだろうかと思っているのだが、リストは、この旋律がショパンとサンドの諍いが影響しているとしている。ショパンとサンドとの関係は有名だが、サンドは彼以外にも男性と関係を持った。おそらくショパンは、奔放というよりふしだらに近いサンドの男性遍歴に、辟易としたものを感じていたのだろう。サンドはサンドで、彼を心配してあれこれ口にしているのだが、ショパンは上から目線で接するサンドの態度が気にくわなかったのだろう。時折出てくる激しい音色は、ショパンとサンドとの間で交わされる口論を描写した者だろうか。ぼくは子供じゃないと言い張るショパンに対し、サンドはあなたは何もわかっていない、だから私があれこれ教えてあげているのに、あなたのその態度はなに!と突っかかる。最後の静かな音色は、もういいや、じゃあ君のいうとおりにすればいいだろうという、半ば投げやりな態度になったショパンではないだろうか。

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