「スティーヴン・オズボーンリサイタル」

本日のソリストであるスティーヴン・オズボーンは、1971年スコットランド生まれのピアニスト。セイント・メアリーズ音楽大学、王立ノーザン音楽大学で学ぶ。主なコンクール受賞歴は、クララ・ハスキル・コンクール優勝など。モーツァルト・ベートーヴェンなどドイツ古典派から、メシアン、ブリテンなど現代音楽など、レパートリーは幅広い。彼のプログラムは、専門家から「緻密で知的なコンセプトを持つ」という評価を得ている。どれだけ知的な演奏なのか、期待して聴いてみたのだが…どうやら、この日の演奏は期待外れといわざるを得ない。
(2014年10月23日 武蔵野市民会館小ホール )

スティーヴン・オズボーンリサイタル プログラム

即興曲 作品142から第3曲 変ロ長調(

4つの即興曲」は、シューベルト晩年の傑作の一つで、1827年に作曲された。ピアノソナタという形式をとらないが、シューマンなど「実質的には、大ソナタともとれる優れた構築性を持つ」と指摘する音楽家も多い。そのため、現在では4曲を一組としてまとめて演奏される機会も多くなっている。この日の放送で演奏された「第3曲」は、劇随番音楽「ロザムンデ」の主題をそのまま生かした、洗練された変奏曲。主題と5つの変奏曲で構成されるが、シューマンは生前、この曲だけ違う曲と考えていたそうだ。
オズボーンの演奏は、いかにもピアノを弾くのが楽しくてたまらない、作曲するのが楽しいという雰囲気が伝わってくる。金銭的には恵まれなかったが、よき友人に恵まれたシューベルトの人柄が窺える。主題で彼が奏でる音色は、高音部では輝かしくキラキラと光る。第一、第二変奏では楽しげな表情なのに、第三変奏では表情が一転する。たぶん、おそらく作曲者は好きな人がいたに違いない。しかし彼女には別に好きな人がいたか、あるいは周囲の反対で泣く泣く別れることになったのか、彼の恋が成就することはなかった。この変奏の旋律からは、彼の嘆き声が聞えてくる。ジャズに近い響きを持つ第四変奏の後、華麗な音色と旋律を持つ第五変奏。だが変奏終盤の音色はこれまで会場内に流れた旋律とは対照的に物静かというより、すべてを諦めたかのような感覚である。この曲が書かれたとき、彼は死病に蝕まれていた。作曲者はこれらの旋律をつむぎながら、自分の寿命が幾ばくもないことを悟っていたのだろう。

作品106(

ベートーヴェンの32曲のピアノ・ソナタのうち、4楽章構成のピアノ・ソナタは全部で10曲遺されている。この曲は最後の4楽章構成によるピアノ・ソナタである。1817年11月に着手され、翌年初頭には第二楽章が仕上がった。その年の夏を過ごしたメートリンクでも作曲が続けられ。1819年3月に完成した。楽譜は同年11月に出版され、ルドルフ大公に献呈された。
この曲が「ハンマークラヴィーア」と呼称されるのは、作曲者が楽譜出版社であるシュタイナー社に宛てた手紙の中で「『作品101(ピアノソナタ28番)』以降のピアノ・ソナタには、従来の『ピアノフォルテ』の代わりにドイツ語で『ハンマークラヴィーアのための大ソナタ』と記載するよう」指定されたことに由来する。しかしいかなる理由からか、この曲だけが「ハンマークラヴィーア」と呼称されるようになった。なおこの曲の自筆譜は、散逸されて存在しない。
演奏時間が40分を超えるなど、曲の内容は高度かつ膨大であり、ピアノの持つ表現能力を極限まで追求した作品である。ピアニストに要求される技術水準があまりに過酷であるため、当時のピアニストには演奏不可能なのでは?と危惧する向きも多かった。だがベートーヴェンは「50年経てば弾く演奏者が出てくる」といいきり、一切の妥協をしなかった。作曲者の予言通り、作曲されてから20年後には、クララ・シューマン、リストラがレパートリーとして演奏会で取り上げている。
第一楽章 第一主題は力強いがテンポは速め、音色は華麗だが、残念ながら私の抱いているベートーヴェンからはほど遠く、テンポと力強さを意識するあまりミスタッチが多すぎる。この曲はピアノソナタとしては大曲で、演奏時間は40分を超えるため、演奏者には高度な精神性と音楽性、そしてテクニックが要求される。だがオズボーンの演奏は、この3つとも欠けているように感じられる。楽譜を見ながら演奏していることから見ると、ひょっとして彼はこの曲を隅々まで把握していないのはないか?本人の意欲は買うが、これはとてもじゃないがプロのコンサートレベルに達していない演奏である。
第二楽章 三部形式の楽章だが、ABAのうち最初のAの部分は音色・表現とも軽薄という感じが強すぎて、ベートーヴェンらしさがまるで垣間見えない。中間部の間奏とスケールは魅力と迫力を感じさせるが、二度目のAの部分の響きがそれをぶち壊しにさせる。あの、これ本当にベートーヴェンですよね?日本の聴衆をバカにしていませんか?
第三楽章 華麗な音色で奏でられる、侘しげな表情が印象的な緩徐楽章。力み返って自滅した感じの第一楽章、ただただ軽薄なだけの第二楽章とまるで雰囲気が異なり、ようやくここに来て演奏者の美点が窺えるようになった。即興曲でシューベルトから、あれだけ叙情的な世界を表出できたのに、この作品で力み返ったのは、必要以上に「ベートーヴェン」「ハンマークラヴィーア」という概念を意識しすぎたからではないか?この楽章には、齡50を目前にしたベートーヴェンの精神状態が垣間見える。思えば、自分はいろんな世界と闘ってきた。旧体制と闘い、カビの生えた慣習と闘い、聴衆の古い意識と闘ってきた。加齢による肉体の衰えと闘い、今は病気とも闘っているだがその結果が、自分の思うようなものにつながったとはいえない。まだまだやらなければならないことが沢山ある。ここでくじけてはいられないのだ、と。
第四楽章 せっかく第三楽章で名誉を挽回したと思ったが、第四楽章では元の木阿弥。ミスタッチを連発し、フーガには厳粛さがまるで感じられず、オルガンを意識したバスの響きもまるで心に響いてこない。ここまでミスを重ねられると、聞いているこちらの方もイライラが募り、しまいには強い憤りを感じるようになってくる。ここまで不出来なベートーヴェンを聴いたことはない。おそらく、当日会場で聴いた聴衆も同じ思いだったのではないか?ソプラノ主題に対するバス、テノールの応答も何が何だかわからない状態であり、低音トリルもその魅力がまるで伝わってこない。

驚くべきことは、これだけ不出来な演奏でも「ブラボー」というかけ声をかけたり、盛大な拍手をする聴衆がいるということ。彼らはいったいなにを聴いているのか?どんな耳をしているのか?彼らのほとんどが、クラシックとはなんぞや、ベートーヴェンとはなんぞやということを理解していないのではないかと思ってしまう。日本の聴衆って、本当に外国人の演奏家には甘いんですね。外国人もおそらく「日本人は甘い、ちょっと手をぬいても彼らにはわからないさ」と思っているのだろう。こんな下手くそな演奏があったということ以外、この演奏の価値がないことが悲しい。おそらくベートーヴェンがこの演奏を聴いたら、怒り狂うのは確実だろう。

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